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2020年2月5日
バレエ

【バレエの歴史】日本にバレエが伝わったのはいつ頃? そして、誰から?

中世ルネサンス期のイタリア生まれ、フランス育ち、ロシアで成熟したバレエは、日本にいつ頃伝わってきたかご存知ですか?
また、誰がこの国にバレエ文化を伝えてくれたのでしょうか?
今や、舞台芸術として多くの人に愛され、習い事の定番として親しまれているバレエ。その歴史を紐といてみると、海外からやってきた舞踏家や踊り子の存在、バレエの普及に力をそそいだ日本人ダンサーの登場など、色んなドラマを知ることができます。

1911年 帝国劇場の開幕を記念した「フラワーバレー」

明治の終わりに海をわたってきたバレエ文化

日本で最初にバレエが演じられた記録をたどると、明治の終わりの1911年に行きつきます。
きっかけは、東京の皇居近くに建てられた「帝国劇場」のオープンでした。ルネサンス様式で建てられた帝国劇場は、館内の階段や通路に真っ赤なじゅうたんが敷かれ、大理石がぜいたくに使われた日本初の西洋演劇場建築でした。
この大劇場の完成を記念する公演で披露された『フラワー・バレー(フラワー・ダンス)』が、日本で初めて演じられたバレエと言われています。
当時の書き方が、いまの『バレエ』ではなく、レシーブ・トス・アタックでおなじみの『バレー』だったことも驚きですね。

その翌年、イタリア人舞踏家のG.V.ローシーが来日

西洋風の帝国劇場が目指したのは、日本の芸能文化の発信だけでなく、西洋の文化や芸能を広める中心拠点でした。
当時、世界で親しまれていたオペラやクラシック・バレエを広めるため、開館翌年の1912年、ロンドンの劇場で活躍していたイタリア人の舞踏家を招きます。
その人の名は、ジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシー(G.V.ローシー)
バレエ発祥の地から招かれたローシーは、日本人へのバレエ指導を始めますが、伝来して間もないバレエは、なかなか日本に定着しませんでした。

1916年 ロシアのマリインスキー劇場が初来日

ロシア革命前夜に帝国劇場で公演

クラシック・バレエの本場であるロシアと日本は、1904年〜1905年に日露戦争を戦った間柄ですが、終戦後の関係修復は思いのほかスムーズだったようです。
1916年6月、ロシア・サンクトペテルブルクのバレエ専用劇場として名を馳せていた「マリインスキー劇場」から3人のダンサーが来日し、帝国劇場でバレエを上演します。
公演日は、なんと、ロシア全体をゆるがす「ロシア革命」の直前。実は、このロシア革命が、その後の日本のバレエ文化発展に大きな影響を与えるのです。

1919年 ロシアから亡命したエリアナ・パブロワ

横浜でバレエ公演、鎌倉でバレエ教室開校

ソヴィエト連邦(ソ連)が始まるきっかけとなったロシア革命は、ロシア国内でバレエの舞台に立っていたバレリーナたちにも影響が及びます。
革命の混乱から逃れ、ロシアを亡命し、1919年に日本へやってきたエリアナ・パヴロワもその一人です。
エリアナ・パブロワとその家族は、横浜のゲーテ座でバレエを上演。関東大震災をはさんで再来日した際には、鎌倉にバレエ教室を開いて、たくさんの日本人ダンサーを育てました。

1922年 アンナ・パブロワの『瀕死の白鳥』

あの芥川龍之介も絶賛した踊り

日本でバレエの認知度が高まり、注目をあびるきっかけとなったのが、ロシアから亡命してきたアンナ・パブロワの来日でした。
ロシア革命の後、バレエ団を結成してインドや中国などを巡るアジアツアーを行っていたアンナ・パブロワは、1922年に日本へやってきます。
ここで披露された演目が『瀕死の白鳥』。
白鳥に扮して踊るアンナ・パブロワの姿に、多くの日本人が感銘を受け、その中には文豪の芥川龍之介もいたのだとか。

日本舞踊を学んだアンナ・パブロワ

アンナ・パブロワは、日本にバレエを広めただけではありません。
なんと、当時の有名な歌舞伎役者から日本舞踊のイロハを学び、海外での公演で披露したこともあるんです。
日本舞踊も習得したバレリーナのアンナ・パブロワは、日本とロシアを芸術のかけ橋で結んだ大女優でした。

日本人バレエダンサーの小牧正英氏の功績

アンナ・パブロワの公演を観た少年の夢

最後にご紹介するのは、日本のバレエ文化発展に大きな功績を残した日本人、小牧正英氏です。
日本初のバレエが上演された1911年に生まれた小牧氏は、母親と一緒に東京で観たアンナ・パブロワの公演に憧れをいだいてバレエダンサーの道を志します。

戦後すぐの1946年に『白鳥の湖』を全幕上演

花の都パリへの留学を夢見て、22歳のときに渡った中国ハルビン市は、ロシアにほど近い西洋文化の色が濃い街。残念ながら、パリへの渡航は叶いませんでしたが、ハルビン市内のバレエ学校に入学するチャンスを得ます。
次第に頭角をあらわした小牧氏は、ハルビンや上海などでの公演に出演し、さまざまな役を経験します。
その後おこった戦争の混乱を経て、1946年4月に上海から日本へ戻った小牧氏は、仲間と共に東京バレエ団を結成
その年の8月、帝国劇場で日本初となる『白鳥の湖』の全幕公演を成功させました。

『バレエ』も『白鳥の湖』も小牧氏が名づけ親

小牧氏が監修・振付・指導のすべてを担当し、自ら出演もした『白鳥の湖』の公演は、22日間にわたって連日超満員に。バレエの魅力は、戦後すぐの日本に元気をあたえる舞台芸術になったんです。
小牧氏のすごいところは、それだけではありません。
日本に伝わってからずっと『バレー』だった表記を、バレーボールと間違うことがないようにと『バレエ』に改めます。
また、今では当たり前のように呼んでいるバレエの名作『白鳥の湖』の名付け親でもあるんです。
もともとは、『白鳥湖』だった日本語の演目名に、“の”の一文字を加えたのも小牧氏の偉大な功績です。

日本のバレエの歴史は、まだ100年ちょっと

ロシア革命があったからこそ

日本にバレエが伝わってきてからの歴史は、帝国劇場が完成した1911年から数えて、まだ100年ちょっとです。
西洋風の帝国劇場で『フラワー・バレー(フラワー・ダンス)』が演じられて以降、イタリア人の舞踏家G.V.ローシーが指導のために来日し、ロシアを亡命したエリアナ・パヴロワやアンナ・パブロワらの登場によって、バレエの文化は少しずつ花開いていきました。
日本にバレエが知りわたり、認められ、根づいた歴史を紐といてみると、バレエの本場ロシアで起こった「ロシア革命」のおかげとも言えます。
ひとつの文化が国境を越えるきっかけは、いろいろあるんですね。

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